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2006年5月15日 (月)

無くなって分かるもの

今回は劇場漂流。ル・テアトル銀座に「紅天女」を見に行った。

あの、いまだ終わらない少女漫画「ガラスの仮面」の劇中劇を新作能として創作したもの。今年2月に国立能楽堂で上演された。

まず、月影先生役の女優が登場し、プロローグを語る。「ガラスの仮面」における「紅天女」の位置づけの大まかな説明みたいなもの。これはまったく必要ないと思う。契約上、「ガラスの仮面」の宣伝として組み込まなければならなかったのだろうか?と穿った見方をしてしまうくらい、「余計なもの」に感じた。

その後、狂言、能(前場)、間狂言、能(後場)という風に進んでいく。

能楽堂ではないので、当然のことながら能舞台は無い。能舞台という限られた空間がなくなってみて初めて、能舞台が広い空間の想像をかきたてていたことに気づいた。

例えば、能舞台で橋掛りから本舞台の方を凝視していれば、遠くからこちら(本舞台)を伺っている様子が感じられる。柱から柱へ移動すれば、距離だけでなく時間や状況の移り変わりもにおわせる。

能楽堂で能を観ていたときは、あまりこういったことは考えなかったのだけど、柱や枠がなくなった(劇場の)舞台上では、「役者が動ける範囲は舞台面積の中」だということを改めて感じてしまった。

全般的には、説明臭さを否めない印象で、ちょっと期待はずれだったかな。それでも、シテの梅若六郎氏の舞は美しかった。考えてみれば、柱のないあの舞台でよくあれだけ早い動きができるものだ。それに、4月に「土蜘蛛」を観たときにも思ったけど、同氏のお声はよく通ってツヤがある。

2月の能楽堂ではどんな感じだったのだろう?チケットが取れなかったのがつくづく残念だ。

今日の「ありがとう」は、仕事を早く仕上げてくれたAさんとU君に。

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コメント

能舞台でないところで能を演じることが出来ることをはじめて知りました。今までも普通の舞台で能らしきものが演じられることを知っていましたが、殆どが仕舞いだけで、幽玄を真髄とする能の世界を表現することは出来ていませんでした。シテの舞一つとっても、極度に視角の狭い能面の中から、柱も無いのに距離、方角の見当をつけるのは至難の業でしょう。
 能の鑑賞はスージーさんの言うように、舞台と観客の間にいろいろな約束事があり、見るほうもそのことを認識した上で、自らも幽玄の世界に入って行ってこそ、能の醍醐味を味合えるものと私は考えている。
 私は年の所為もあるが、テレビ能舞台の「俊寛」や「隅田川」のシテがシオリをするとこちらも涙してしまうのである。否それだけ人間が単純なのかもしれない。

能舞台ではないところで能を舞うという実験的な試みは、数年前から行われているようですね。
染色家、久保田一竹の海外での展覧会や、河口湖畔の記念館開館のおりにも、展覧会会場や記念館前で能が舞われたようです。

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